昭和44年10月4日 朝の御理解

御理解第83節「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、見てる(尽きる)ことはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ」



 人より一年遅れて分限者になる気になれ。ここのところを、まぁよく申します。もう人より遅れて一年遅れて分限者になる、気になれと。といいながら、一年経っても二年経っても、一年どころか、十年経っても分限者になれない。
 だからここんところを、一年遅れて分限者になる気になる、なり、なっております、というように、まぁ申しますが、そのため、そのためにはね、その、この前のところを本気で頂かなければ、いわゆる人より一年遅れて分限者に、(七年?)遅れて、ていうのは(けんしゃ?)なんか出来ない。
 そういうたら、一年遅れるどころか、誰よりも早く分限者になれるんですけれどもね。ただ一年遅れて分限者になる、なる気という、気でおりますというだけではいけんのであってね。
 「一年に分限者になるような心になるな」と。この一年に例え、一、ね、例えば信心を始めたらね、直ぐにでもこうおかげが受けられるような気がするですね。いわゆる不思議とか、奇跡とかと。いうような、その確かにおかげはありますから、商売なら商売でも信心するようになったらもう、一遍にその売上げが増して、えー、利益が多くなるというようなその考え方を、お互いが持っておりますね。そういう心になるなと。
 先は長いぞ、一文二文、またそうした心得ようなんですよね。いわゆる分限者になる、分限者の徳というものを、やはり身に付けていかなければならん。「一時に伸ばしたものはみてやすい」確かにそうである。何かに当てた、当ててそのまぁ一遍に、まぁ一気に満開になったというようなのは、えー、やはりみてやすい。
 ね、それは分限者の徳というものを積まずして、一時に身、身に付いたものだからね、「神信心をすれば我慢我欲は出来ぬぞ」と。ぬれ手の、で粟のつかみ取りの気を持つな、と。「神信心をすれば我慢我欲は出来ぬぞ」と。ですから、我慢我欲を取り除かせて頂くと、「ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな」と、ね、そういう我欲な心を私共の心から取り除こうという精進、そこに、ここんところを大事にしなければならんですね。
 一年遅れて分限者になる気になれと。一番最後のところ。そこんとこをだけを、ここの(ん?)御理解頂くと、そりゃ人より一年遅れた分限者になる気になればいいというて、一年遅れても、二年遅れても分限者になれない。
 それはその、分限者の徳を身に付けようとする精進もしなければ、ね、我慢我欲も取ろうとしない。心の何処かには、やはり、ぬれ手で粟のつかみ取りの気持ち、というものを起こす。そういう気持ちを起こしたり、そういう気持ちがあってです、ね、一年遅れて分限者になる気になれというたって、一年遅れても二年遅れても十年遅れても分限者になれないという事。
 ね、又この御理解のやはりあの、ちょいとほんのここ、最後のところが決め手のように感じますもんね、こりゃもう皆言いますよ。人より一年遅れて分限者になる気になると、気持ちは楽なですわ。受けきっとらんです、気持ちは楽だけれど、それではね、何時まで経ってやっぱり、一年遅れても、二年も、三年も遅れたっちゃ、分限者になりきらん。
 ね、ですからその、その分限者になるその、分限者になるためには、やはり分限者の徳というものを身に付けなきゃならん。それには私共がですね、やはり分限者に、いわゆる分限者の徳というのは、どういう事ですかね。
 昨日の朝の御理解のように、ひとりでに物が生えるような物であろうと仰る、それなんです。ね。「とかく信心は地を肥やせ」と。信心、地を肥やしておけば、ね、ひとりでに物が出来るようなものであろうとこう。地を肥やすという事そのことがやはり私は分限者の徳を受けることだとこう思う。
 そこでここでは、確かにその「一時に伸ばしたものはみてやすい」と。これは皆が分かりますよね。例えば宝くじなんかに当選して、一遍にその、まぁ金持ちになったという人達が、その為に難儀をし、それはまた束の間に使うてしまうといったような例をよく私共は知っておりますが。
 知っておるけれども、やはりその百万円の宝くじ的なものをですね、当てたらというような心がお互いの心の中にある。だから、そういうような心になるな、とこう仰るのですから、そういうような心を取り除く修行がまず第一だという事が分かります。ん。ね。
 だからそういうような心を除かせて頂くという事の工夫。我慢我欲を出さん。私共の心の中に、何か信心しておかげを受けるという事は、何かこう特別に棚から牡丹餅が落ちてくるようなおかげが受けられることをです、何か心の底に思うておったり、感じておったり、するようなものがある。そういう心をまず取り除く。
 「人より一年遅れて分限者になれ」そういう気になれ、そういう気でおれと。やはりおかげを頂くそのこつでありますね。そして、なら、果たして人よりも一年遅れることになるかというと、ここんところが出来、頂ける時にです、一年遅れどころか、誰よりも私は早く分限者になることが出来ると。
 分限者の徳を身に付けるのですから、ね、一時にためて、いう、いわゆる一年に分限者になるといったようなそれはみてやすいと。ね、いわゆる「金の杖をつけば曲がる」というみ教えがありますがね、いわゆる金の性質そのものを、まぁ今日はそのここには分限者の徳というような、お金を持つことだと。
 お金を沢山持つことだと、実はお金だけのことじゃありませんけれども、まぁお金にしぼりますとね。その金の性質を知らんなりにですよ、金を身につけるから、ね、みて、直ぐにみててしまうのです。
 金っていうものは尊いもんだと。金は大切なもんだと。ね、金をいわば、汚い物のように言いますけども、決してそうじゃない。金は尊いものである。大切な物である。そこんところを、私は本当によく分からなければいけない。ね。
 尊いもの、大切なもの。ね、それは神に頼るというのじゃない。ね、そんな尊い物、大切な物であるけれども、それに頼るということはいけないこと。それは「金の杖をつけば曲がる」という。そういう性質なのだ。
 いわゆる金に愛されたいならば、金を愛しなければならない。いわゆる、金に大切にされたいならば、金を大切にしなければならない。
 金を大切にするということは、ならどういうことかと。ね、金の性質を知ってです、いわゆるあの(子銭?)だったね、お金を貯めて、もう一銭も出すまいとする。いかにもこりゃ大切にしておるようであるけれども、これはいわば金をどういうことになるかね、いわば金を苦しめておるようなもんだと思うですね。
 金を大切にするということは、ちゃんと財布の中に入れて上げるて、もう絶対使わんとったような事じゃないのです、そこに、金の性質を知らなければならん。
 昔から、ね、金を生かして使えとこう言う。だからその、金と反対に、金を殺しておる人がある。ね、いわゆる死に金を使う。ね、殺して使う。死に金です。ね、生かして使う。いわゆる生きた金。
 しかも大切にされておるから、その金が例えばつか、例えば使ってもです、ね、それが又すぐそこんところへ、大事にされたいと思うて帰ってくるというわけなんです。しかも帰ってくる時には、それにですね、金やら、(やや?)その子やら、孫やらを連れて又入ってくるちゅうわけ。百円出しとったら、そりゃ千円になって帰ってくるち、生きた神を使うということ。
 ね、いかにも、すぱすぱ出すとが、きれいかとのごと、と思うてから、ね、出してそれがもし入ってこないとするなら、ね、それは美しい使い方ではなくて、生かした使い方ではなくて、ね、いうならば、もう殺して使ったという事になるのでしょうね。
 ですから、そこんところをです、こりゃもう一つ一つ、原因にしてまいりますと、大変、まぁ色々な難しいことになりましょうけれども、ね、結局私達分限者になる前にです、まずそういう金の性質をよく分からせてもらえ。ね、金を大切にさせてもらい、金を尊ばせてもらう道を覚える。
 ね、それにはです、ね、「ぬれ手で粟のつかみ取りの気になるな」また「我慢我欲は出来ぬぞ」と仰る、その修行を本気でしなければいけん。
 私は、分限者になる徳を身に付けると、いう事を信心で言うと、んー、物に金に不自由しない、一つの徳というものが身に付いてくる。ということは、私は全てのおかげが、いわゆる頂けれる、いわゆる分限者の徳である。ね。
 昨日、娘達が話しておりました。豊美と愛子(あてに?)この頃からもう本当に最高の生地の、洋服生地を沢山買わせて頂いて、それをあっちこちらに仕立てに出して、それが段々今、3枚4枚出来てきよる。
 本当に最高の、いわば生地。さい、の、ものですから、どんなに立派なものが出来て来るだろうかと皆がやっぱ、娘達期待しておった。ところが、生地を見た時はそうでもなかったけど、出来てくると自分には全然合わない、仕立ても自分の気に入らない、そういうようなものが段々出来てくる。
 そこで、その豊美が一番に気が付いたんですね。こりゃ愛子ちゃん、こりゃとても本当、これだけの最高の生地を身に付けとってこげん実をいうたらおかしい。こりゃ私達が徳のない証拠ばいということに気が付いた。
 今まで私達が、うえ、もう豊美なんかでも愛子達でも、いうなら着た切り雀のような、事でしたけれども、上着を頂く、スカートを頂くと例えば洋服でいうても。着物を頂く、帯を頂く。ですからこの着物にはこの帯がいいというてから、買うたような事はない。
 けれども、それをこう頂いたものがです、ぴたっと合うて行くわけですね。まぁいうならば、自分にもう気分に良く着れるわけです。ところがそうではなくて、もうそれこそ贅沢に、良い品物で、ね、そして作ったのにも関わらず、自分の、こりゃ良いといったようなものが出来てこないということは、こりゃ愛子ちゃん、仕立て屋さんが悪いとじゃなかばい、生地やさんが悪いとじゃなかよと。こりゃ私達がこのくらいの徳しかないことを分からにゃいかん。というてその、まぁ二人で話してる。
 昨日、お茶の道具がまいりました。もう本当にもう、驚いてしまいますね。お茶の道具が丁度16万からかかります、お茶の道具だけで。もう家にはあるようなものは、もう(?)買わなくても、一通りそろえましたら16万円。
 あー、見事なお茶道具がまぁ客殿に出してあります。それを見て豊美が又言うんです。こうして折角これはこうして一緒、揃えて頂いたけれどもです、とても自分達の身につりあわないものを持っていったっちゃ出来んから、こりゃ今まで使いよったここにあるもの。
 例えば釜でも3千円ぐらいなものを、(場合は?)使っておる。(こんど来とるのは?)その3万円、ぐらいな、3万円以上もするような釜。ですから、いうなら十倍もする釜である。ね、そこでまぁ気が付いた事は、こりゃ私達の徳につりあわないものであるから、ね、今までここで使いよんなさったつをもろうていって、これはここに置こうと。
 ここの客殿に置きゃ、一つもその、つりあわないという事がない。いわゆるここの客殿ならぴったりする。これはここに置いておこう、そして、今まで使いよった、お稽古に使いよった、それをもろうていこうという風に話しております。ね。
 不思議な事ですよね。自分のやはり身に付いたものでなかなければ、ほんなもんじゃないという事。本当に分限者の徳というものが身に付いたらです、集まってくるものがそれが全部自分の身に丁度つりあうたぴたっとしたものが集まってこなきゃならんはずだと。
 結局お父さんの信心で集まってきよるようなもんじゃから、ほりゃ考えなきゃいけないというて、兄弟話してるのを聞かせて頂きましてですね。もう私は何十万使ったっちゃよか、愛子ちゃんそこんところが分かっていくなら、というて愛子が後で一人まいりましたから、そのことを申しましたです。
 ね、その前日、お茶道具を、ちょうどお茶をされる方達だけ、あの茂、茂さんと、繁雄さんと一緒に来て下さって、もうほとんど半日がかかりで、そのお茶道具を買いにまいりましたもん。
 もう私はここに、お茶釜まぁ4、5千円ぐらいになるけん、まぁこんくらいとに私はしようと心の中では思いよるけれども、もう豊美達は自分でその、二人ともお茶の稽古にいきよりますから、良いその名品とか、立派な道具を見つけてきておるもんですからね。使いよって、こげんとはもう使われんち。結局よかつばっかり、そのいうなら身に付けるわけです。
 もうこのくらいばっかりの茶壷が7、8千円する。でこれは、蓋が悪かけんで( ? )と替える。もうこんくらいばっかりの椿の蓋が八百円する。(ていよる?)ですけん、あんたほんなこて、16万円になるはずです。ね、それからというてですね、もう又あの贅沢いうならもう本当茶杓一本が十万円するです。竹で作ったこれだけの杓一本が十万円する。
 ちょいともう、そりゃもう限りがないですけどもね。それでもそれをんなら、見て、その次々と出来て来るその洋服を見てから、着てみてからです、もう本当にもう自身を持って着れるというものがないとこういうのである。
 なるほど私も着てみてから、なんかこうお猿さんのごたるな、そげんおかしいしてから、いうごたる感じなんですよ。生地も私は見、見せても頂いとるし、それで本当に良かったんです。ね、ところが、素人が見ても、どうか、その仕立てがどうか、妙な風な中ごたる感じがするんですよ。
 ね、けれども、なら豊美達、豊美がですね、その愛子と二人で話しておることが、これをならかやそうとも言わなければ、仕立てなおそうとも言わん。これは愛子ちゃん、これが私共が身に付いとるとよ、とこういうことになってきた。
 そこで昨日来たお茶道具も、こりゃとてもこんな物持っていきよったら、ろくな事なかけん、これはここに置いていこうと。そして、ここで使う、お稽古に使いよったのを持っていこうということに、まぁ、話がになっておるようでございます。
 ね、私はここんところ、その我慢我欲ということはそういうようなことじゃなかろうかとこう思うです。ね、それを、平気でする。そこで私はその愛子に申しますように、それは、あんた達がそこに気が付いてくれるならですね、私は何十万それが例えば棒に振ったって、私は有り難い。
 私はあんただんがよすぎる。そげな高かとばとはいわん、いってから絶対言わんです。これが良いっていうなら、ならそれを下さい、あれを下さいというて、その買う。
 けどもそこに、娘達がそこんところが分かって来たということはです、ね、今日の御理解から言うと、いわゆる「一年に分限者になる気になる」形の上で分限者になったっちゃだめ、心が分限者になって、その分限者の、が持つようなものが持てれ、使うようなものが使えれるようにならなければ、ほんなこっちゃないと例えば娘達が気が付いたということをです、私は有り難いと思う。ね。
 「一年に分限者になるような気になるな」まずそういう気になるなというの、なら私共の心の中に、一年でもし許されるならです、それこそ、宝くじこうちからでん、一遍にぱっと分限者になりたいといったような心があるならば、それを取り除く修行を本気でしなければいけないという事。ね。
 同時にです、道理の上から言うても、「一時伸ばしたものはみてやすい」みてやすいといどころか、かえって一時伸ばしたものによって怪我をする。ね。そういうような、ものをしかし、それでも身に付けたいというような気がある。
 いわゆる我慢我欲を出来ん。「ぬれ手で粟のつかみ取りのような気になるな」と。だからそういう、例えばこの、今申しましたようなことにですね、自分の心の中に「ぬれ手で粟をつかみ取りの気になるようなこと、心はないだろうか。
 一年で分限者になるような気が、心がある。そういう心があって、例えばですよ、分限者になったんではです、必ずそれは見ててしまうのであり、それによってむしろかえって怪我をするということ。そういう心があってしたんでは。そういう心があって身に付いたのでは、ほんなもんじゃないて。
 だから、そこんところが、これは大事だという事が分かりますけれども、第一私共でもそうでしたけれど、これを頂いてから、いわゆるずっと読んでいって、一番最後のとにかく人より一年遅れて分限者になる気になれんところだけを、何か自分に考えておる。
 もうとにかく信心するなら人より一年遅れて、それが自分がおかげ頂ききらんもんじゃから、何時の間にか自分を慰めのためにそういう風に思う。まぁとくかく教祖様は一年遅れて分限者になれと仰るけん。先は長いから。というて、何時まで経っても分限者になりきんらん。というのが、私は現状じゃなかろうかとこう思うです。
 ね、ですから、勿論一年遅れて分限者になる気にならせて頂くのですけれども、それにはその、前のところのね、こういう気にはなってはならんぞ、こうはしてはならんぞと仰る、そこんところをです、自分の心から練り出させてもろうて、ね、はー自分にはまだ百万円の宝くじ買うごたる気持ちが心の中にある。
 これで、もし分限者になったっちゃです、これはほんなもんじゃないぞと一つ分からにゃいかん。ね。
 昨日、末永さんが、朝お夢を頂いた。●ここの食堂が風呂場になっている、風呂屋になっとる。で、私は申しました。末永さん、本当に今ね、今の合楽はね、もうどこの部屋に行ってもお風呂があるような状態よと。例えば昨日の、朝のご、今朝の、ね、私、昨日の言葉で、今朝の御理解頂いておると、ひとりでに物が出来るようなものぞというのがです、もう何処へいってもひとりでにものが出来ておるという感じだ。
 ね、そして、丁度ここに、その日の、私は、その前の日に銀行にお金を持っていっとりました。全部。それに、ちょっと待った待った、金がいるからもう払わせて頂いて、払わせて頂きましたら、もう丁度そこにある方がお供えをなさったのを開かせて頂いて、それだけできっちりだった。
 今だから、ここにはあの、おー、百円の金も今一つもほれ入っとらんよ、と言うて末永さんに見せながら私が話すんです。けども、こげんな間違いなくひとりでに出来よるからね、ここは。ひとりでに生えよるから。これはお広前だけじゃない。ね、もう何処へいってもそれを感ずる。家の部屋。
 そりゃもう、あー、納戸にいきゃもう新しい反物が、沢山の着物がいっぱいおいてあるしね。それこそ食堂にでも参りますと、おかがみさんなんかでも十ぐらい冷蔵庫の中にはいっとるちゃもん。
 私はもうびっくりしてから、というて私はあまっとるけん誰でんいきなりやるといったような事は絶対しないのが私の流儀なんです。例えお下がりを他所にこうやって、下げなさったら、そりゃよかろうごたるけれども、そげな事はせんのが私の流儀なんです。
 というてそれば、どうして頂かんなら、どうしてもお粗末になる。ほりゃもうとても今、私はあの末永さんに申しました事ですよ。修行生のあんた達がこげな物食べよったら、ばちかぶるよ、ちゅうようなお餅ば食べよろうがち私が。
 ね、桂先生のあぁいう大徳な教会ですらば、あそこでは、ね、ご飯はあそこんとは目玉がえちゅう、言われておったんじゃ。ね。ね、こうやって釜の中ば覗くとね、自分の面玉が映るち、ぐらいにうすいおかゆさんじゃったち。
 だから、その小倉のおかゆを目、その目玉がえち皆が言うたと。お客さんが1人あると、奥様がこうやって手が出しなさるそうですもん。それけん、そすと一尺をいっぱい水を入れんならんそうです。二人お客さんがあると、こうしなさるそうですから、ご飯炊き(よる人が?)2杯又入れにゃでけん。
 だからもうお客さんがあると、クーと修行生のもんがしよった。ね。そりゃもう今日お魚よ、ちう時には目刺しが一匹ち。てもう家当たりは、それこそ鰤の切り身に、鮠の塩焼きちゅうごたることは、あんたもうしょっちゅう、もう何時もですけんね。本当。ん。
 本当に、食堂がやはり極楽になっておるような状態です。ね。そこで末永さん、昨日一昨日、あんたげん兄さんが、勇先生がここに来ました時にです、私がお食事を出す時に、もうお準備が出来ておりましたから、さぁ頂きなさいというて、頂かせてね、御神酒も好きですから、一本付けて出しましたけれども、もう頂けませんちこういう。
 まぁそういうなら私も一杯頂くけんでというて、まぁ要約一本を頂きましたけれどもです、ご飯を頂くのに、お酒を頂くのに、絶対(いちわんしかづに?)お酒を頂かんのですよ。もうそん時私ははっと思うて、はーこの人今こういう修行しよるなぁと思うたから、(おもに?)進めませんでした。
 今兄さんだんそげな修行しよるよっち。ね、あんたがお夢に頂いておるからいうけれども、ちっと極楽がすぎりゃせんかね、と私。そりゃ今合楽のね、合楽の何処のすみからすみを考えてみてです、なるほどひとりでにものが出来ておるようなものじゃから、いくらちぎったっちゃ、いくら取ったっちゃです、もう後から後から生えてくるようなおかげを受けておるから、こりゃ家庭の者全体もそうだけれども、修行させて頂きよる身分あんた達は、そこんところをいよいよ考えなければいけんのじゃなかろうかというて、まぁ昨日話した事でした。
 ね、ですからね、そういうおかげを頂いてからでも、やはりちょっと心しなければならないことがあるのですから、それを頂く前の者だったら、なおさら考えなければいけないでしょうが。
 ね、分限者の徳を身に付けるという事。それには、最後のところ、「一年遅れて分限者になる気になれ」というところだけではなくて、その前の、その為には、ならそういうおかげを頂くためには、末永さん私達が、私の家族がどういう修行をしてきたかと。ね、いう事を一つ思うてみなければいけない。というて、お話したことです。ね。
 本当に、例えば沢山あるからというて、それをお粗末な使い方を、(?)な使い方をしよるようなことであっては、それこそ(みょうが?)が尽きる。本当に、ここに考えなければいけないなというて、まぁいうてあります。
 まず今日なら、金なら金のことをもし、まず金の性質を知る。金はどういう性質、いわゆる神の心を知れということなんだ。ね、大切にされりゃ尊ばれれば、やはり金から尊ばれ、金から大切にされる。金を酷使すれば、又金から酷使される。そすともう使わんで、ちゃんと、立派な財布の中に入れとく、金庫の中に入れておくという事が、なら尊ぶ事か、大切にしておるかという事を、そうじゃないというところにです、お互いが考えなければならない。
 いわゆる、ね、そういうような事がいかにもよいようであっても、それは金を殺しておる事であり、しかも殺した金を使うのであるから、かえりめがない。ね、生かして使う事はいかにも、酷使しておるようであるけれども、それこそ金は喜んで御用に立っていく。
 だからまた子やら孫やらが連れて帰って来る。生かして使う。そういう私は自由自在な生かしての使い方がです、分限者になるまでに一つ稽古が積まれて出来てから、私の心から本当に一遍に儲けだそうとか。ね、百万の宝くじを当てたいような心が一つ取り除かれたところから、生まれてくる、自分の身に付いてくるものでなからなければ、分限者の徳とはいえないと私は思うです。
 ね、どうぞ一つ、人より一年遅れて分限者になるならば、本当にですね、私は分限者にならして頂かなければ、言うておるだけで何時まで経ったっちゃ、五年経っ、五年遅れになったっちゃ十年遅れになったっちゃ分限者になりきらんというのではいけません。
 ね、いや分限者の徳をまず身に付けることのためにです、あぁしてはいけんぞ、こういう心がけになってはならんぞと、ここにその、言うておられますそのことがです、私共の心の中にある。
 だからそういうものに、まず取り組んで、改まらせて頂くことを先にして、一番最後の一年遅れて分限者になる気になれといや、これは楽になるだろうと思います。そういうものをまず、私共の心から除いて、その上しかも人より一年遅れて分限者になる気になったら、実に楽である。
 ね、そこから私は頂けれるおかげ、それを分限者の徳を受けて、それについて来るおかげであるという風に思うのです。どうぞ。

梶原 佳行